量では測れないヒトの物語を紡ぎ出す方法は? SCAT分析で明らかになった離島医療の魅力とは。
お久しぶりです!
先日は380kmを3時間で往復して耳鳴りが止みません。5月病でしょうか?
患者搬送がありました。どうか無事でありますように。
離島医療人物図鑑のプロジェクトが発足されてから一年。
僕たちは離島医療の魅力を社会的にも、学術的にも発信していこうと活動を続けてきました。
離島は医療者にとって、自分が成長できる場所であり、やりがいを感じられる場所なんだということは何となく分かっていた。
でも、それはあくまでコトクの意見であって、みんながそう思うかはわからない。
だから、それを証明するために人物図鑑のメンバーで「質的研究」をはじめました。
質的研究はいわゆる臨床研究と言われるような沢山の症例を集めて、統計学的な有意差を出すような手法ではありません。一人一人の言葉を聞き、それを分析し、概念化し、そこから物語(ストーリーライン)を紡ぎ出すことで、ある事実を科学的に証明する手法です。
もともと、文化人類学などのフィールドワークで使われていましたが、医療界では看護師さんが「流産した妊婦さんの心情の変化」や「看護ケアにおける教育の受け入れ」など「質的」な分野を明らかにするために使われています。
今回、SCAT(steps for coding and theorization)という質的研究手法を用いて「離島医療の魅力、やりがい、課題は何か?」を明らかにしました!
ZOOMを使って離島で働く医師、看護師、薬剤師さんにインタビューをして、文字起こし、それをSCATを使って一度概念化させて、再度、それを物語にしていく。
とても時間のかかる大変な作業だけど、人物図鑑のメンバーと毎晩「あーだこーだ」言いながら作業して、物語が少しずつ紡がれていくと、その物語の続きにワクワクして疲れも吹っ飛んでいきました。
「これだ!これが言いたかったんだ!」
ずっと言葉に表したくても表せなかった言葉たちが、研究参加者のみなさんの口から出てくると、ZOOMで離れたその離島で働く人たちを僕は勝手に、長いことお世話になっている恩師のような、友達のような、大切な人に会った気持ちになってお話を聞いてました。
そして、先日ついに形になり、今度の5月22日、日本プライマリケア学会で発表します!
オンラインでのみ参加になります。
学生、研修医は無料ですので!是非お時間のある方は見に来てください!
医学部を目指す高校生の君へ。10年後の僕より。
「コトクは良い医者になるよ」
高校生の時に先生からもらったその言葉が今でも僕の宝物になっています。
その先生から直接僕は教えてもらったこともないし、担任だったこともないけど一個下の学年の先生で何となく知っていた。
高校3年生の受験前
親からは「そんなに遊んでて受験受からないわよ」と言われ
物理の先生からは「コトクには絶対無理だよ。もっと下の大学にしたら?」
と言われるくらい出来の悪い高校生でした。
高校3年生の春に部活を引退した僕は、引退試合の次の日から朝5時に起きて勉強をする生活に切り替えました。
毎朝学校に一番乗りで着くと誰もいない教室で勉強をはじめて、授業中も耳栓して自分の勉強をしていました。
みんなと同じペースで勉強していては絶対に間に合わないと思ったからです。
駅から学校までの通学路を歩いていると、いつも僕を追い越して「おはよー!コトク!今日もはやいな!」と声をかけてくれたのがコバヤシ先生だ。
コバヤシ先生はどんなに朝早くてもいつも爽やかに挨拶してくれるので好印象だった。
そして、いつのまにか冬がきた。
受験も目の前だったが、相変わらず模試の判定はE判定のままだった。
ある朝、通学路を歩いていると、コバヤシ先生はいつものようには僕を追い越さなかった。
「今日は寒いなー」
「受験勉強はどう?」
何て返事をしたのかは覚えてないけど、学校に着く直前でコバヤシ先生が
「コトクは良い医者になるよ」
そう言ってくれた瞬間、ゴチャゴチャしていた僕の頭が空っぽになり、替わりに心がジワーッと暖かく埋め尽くされていくのを感じました。
周りの大人たちの対応や、模試のE判定の文字は「お前に医者は向いてない」と言われ続けているようでした。
その言葉に耳栓をして、心を閉ざして勉強をしていた自分の心が溶けて暖かくなるのを感じました。
そして、コバヤシ先生がそう言ってくれたのだから「良い医者」になろう、そして僕も人にそんな言葉をかけられる大人になろうと思いました。
あれから10年経ち、僕はあの時のコバヤシ先生くらいの年になっていた。
僕は鹿児島のとある島で産婦人科医をしている。
そんな僕にコバヤシ先生から突然メールが届いた。
医学部を目指す高校生たちに話をしてくれないか?
卒業生で医者をしている人なんて沢山いるのに、コバヤシ先生が僕に声をかけてくれたのが嬉しかった。遠く離れた鹿児島の島で働く僕に。
神奈川から僕の島まで1500kmの距離をzoomが繋いでくれて、久しぶりに母校の雰囲気を味わうことが出来ました。
あの頃の僕に伝えるように、今の自分が医師として感じていることを。1人の人間として誰かのために働くことの大切さを。自分を信じる大切さを、自分なりの言葉で伝えました。
時代は変わっても、あの頃の僕たちと何も変わらない、可愛い後輩たちが沢山質問してくれました。
その中で1人、気になる子がいました。大人しそうな子で、手を挙げてくれたけど、あてられた後に「、、やっぱりいいです、、」と質問をやめてしまいました。
終わり頃になって、彼は再度手を挙げてくれて
「僕はお医者さんになりたいけど、お医者さんの仕事は喋ることが大事じゃないですか。僕は喋るのが苦手で、大丈夫なのだろうかと、、」
ああ、僕はこの子と喋るためにここに来たんだ。と思いました。
医者は喋ることが仕事じゃない、患者さんの思いを、病歴を「聞く」ことが大事なんだよ。と。
そのためには、適切な相槌やアイコンタクトなどの”非言語的な”コミュニケーションが大事だよ。と。
そして、
「大丈夫だよ。君は良い医者になるよ」
と伝えました。
医の道はアートである、アートの道もまた医の道に繋がる
「診察中にパソコンばかり見て、患者の方をまったく見ない医師」
テレビ番組や医学教育の場面でも良く問題にされる「悪い医師」の典型的な例として良く使われるシーンです。
これと全く同じことが美術館でも起きているのです。
美術館の有名な絵の前でスマホを片手に、その絵の解説を読みあげる彼氏とそれを聞いて「ふーん。」と隣の絵に移動する彼女です。
世の中には沢山の美しい絵がある。絵の中には作者が伝えたい、沢山の仕掛けが隠れています。
確かに、Wikipediaやインターネットにはその絵の知識や情報は沢山載っているかもしれません。
でもその知識や情報は、作者が本当に伝えたかったことでしょうか。
折角本物の「絵」が目の前にあるのだから、スマホから顔を上げて作者の「仕掛け」に目を凝らし、「思い」に耳を傾けてみませんか。
そして自分だけが見つけた「新しい気付き」を隣の人に共有してみましょう。
そして、隣の人が見つけた「新しい考え」に耳を傾け、共感し、受け入れてみませんか?
先日、ミルキク代表の森永康平先生のオンラインの対話型鑑賞のワークショップに参加してきました。
森永先生はnoteを通して出会って、総合診療医でありながら、京都芸術大学の院生、そしてミルキクを運営されていて「医療×アート」を実践している素敵な先生です。
対話型鑑賞は、1980年代半ばに、アメリカのニューヨーク近代美術館で始まった美術の鑑賞法です。対話型鑑賞が従来の美術鑑賞と異なる点は、作品の意味や技法、作者に関することなど、美術の知識をもとにして作品と向かい合うのではなく、作品を観た時の感想や、そこから想像されることなどをもとにして、グループで話し合いをしながら、その対話を通して観賞が行われるということです。
こうした、美術についての知識を介さずに作品を楽しむ体験を他人と共有することを通して、想像力や自分で考える力を育てること、自分の考えを話す力や他人の話を聴く力といったコミュニケーションの能力を育てることを大きな目的にしています。 参照:足利美術館ブログ
それでは、じーっくり鑑賞してみましょう!貴方には何が見えますか?
青白い、男?女?の人が横たわっています。
着ている洋服は?
いつの時代の人だろう?
ここで大事なのは「事実」と「解釈」をしっかり分けて考え、相手に伝えてみることです。
当日の参加者はお坊さん、先生、図書館の司書さんと様々な分野の方が参加しており、色んな立場の人の色んな考えを聞くと、同じ絵をみても見え方は人によって様々であることに改めて気づかされました。
例えば、コトクは洋服とかから勝手に船乗りと考えて、床に転がっている筒状の物は小さな望遠鏡だ!と考えましたが、
他の人は真っ青な顔で横たわった人の手元から転がっているのだから毒薬の入った瓶だろうと、なるほど確かにそうだ。
そうすると、青白い顔も納得だし、そうすると箱の中に入っているビリビリになった紙はなんだろう、、と次のところに目と頭が集中していきます。
この会は何か正解を見つけるのが目的ではなく、一つの絵画をじっくり見ながら、あーだこーだみんなで楽しく話し合うことが目的の会で、久しぶりに「自分の考え」をフラットな場所で人に伝えるってことをしました。
「自分の考え」をその場でぽんっと出すことは心が軽くなる。
何かと言いたいことも言えないこんな世の中では、この対話型鑑賞というのは教育だけでなく、色んな分野で活用できるなと改めて感じました。ポイズン。
改めて、最初のお医者さんに戻ると、このお医者さんはすごい損している。
患者さんというのは一人一人違う人生を生きてきた、言わば芸術の結晶である。
その芸術の細部を見ずして、データだけで、その人を語ることは何ともったいないことでしょうか。
医の道はアートであるとプラトンは言いました。
今、全国の医学部や看護学部、小学校の教育現場などでこの対話型鑑賞という技法が取り込まれています。
そんなアートな視点をもった医療者が作る医療の世界はもっとより良いものになると思いませんか?