関係人口
悪い子はいねーがー?
鬼は外!福は内!
今年の節分は子供達に豆を沢山ぶつけられました!
お久しぶりです!ゲネプロ2期生の小徳です!
もうすっかり春になって暖かくなって来ました。
最近の外来は、ほとんど患者さんとのお別れの時間に使っています。
この前『はじめまして』の挨拶をしたばかりで、やっと最近お互い信頼関係ができ始めたのになあ。
なるべく、毎回の外来では一方的に医療の押し付けにならないように、一緒に患者さんと話し合いながら治療方針を決めるよう心がけてきたつもり。
でも、最後のお別れを言った時に初めて心を許してくれたって感じる場面もあって、まだまだまだ、だなあと実感しました。
いつも、高血圧で治療中だけど、あまり自分の体のことなんて全然考えてません。もう帰っていいですか?って感じですぐに帰ろうとされる患者さんがいて、先日、お別れの挨拶をした時に急に、お孫ちゃんがいることや、その子達といつも遊んでヘトヘトなことだったりとか、普段の生活を笑顔で話してくれました。
この診療がこの人と会うのが最後と思って、心を開いて診療していたらもっと早く信頼関係が築けただろうか。
ゲネプロやジャパンハートは、上五島や色んな地域に、この短い間だけ来て医療をする。長崎で生まれて、長崎の地域のために働く人たちと違って、自分たちのアイデンティティーって、モチベーションって何だろうってずっと考えていて。
そんな時に『関係人口』って言葉がしっくりきました。
『関係人口』とは『観光客』と『定住者』の間で『その地域に継続的に関わりたい』と思ういわば『サポーター』や『ファン』的なひと達です。
もともと地方創生や地域おこしで使われるようになった言葉だけど
島作り、町作りを勉強していると、つくづく「地域」と「地域医療」は似ていると思う。
一番似ているのはやっぱり、『少子高齢化』と『都市集中』という同じ問題を抱えていること。日本の離島や僻地の診療所のほとんどは人口減少により、閉鎖され、常駐している医師のいない医師不在診療所です。
しかも、診療所の医師のほとんどが70歳以上で、若い医師はみんな東京とかの都会に行ってしまいます。
”何もない地域”なんてありません。その地域の魅力を掘り出し、発信して、沢山のIターンやUターン、地元に残る若者を増やすことに成功している地域が沢山あります。
『地域医療』が『地域興し』に習う事は沢山あって、どうやって若者を増やすかとか、ただ定住する人を増やすことに躍起になるんじゃなくて、『関係人口』っていうフワッとしたものを受け入れてくれる場所こそが、たくさんの人が行き交い、住んでいる人にとっても、訪れる人にとっても魅力的な場所になるんじゃないですかねー。
上五島にも毎年沢山の人が来て、五島の綺麗な海だったり、新鮮な美味しいお魚や、地元の温かい人達を好きになって、また、帰ってくるんだと思います。
小徳もいつか成長して、お手伝いに来て、上五島病院のみんなや患者さんに会えたら嬉しいなあ。
まだ終わってないけど、ちょっとおセンチな春でした。
結コン筋クリート
あけましておめでとうございます!!
国民栄誉賞もらえなそうな顔の羽生君です!
2018年もお疲れ様でした。2018年は濃厚な1年間であっという間に終わってしまいました!
みなさんはどんな1年でしたでしょうか?
先日の当直で当直室で寝ていたら病棟から「先生!急変です!!病棟に来てください!!」とコールがあり
急いで白衣を着て、聴診器を持って、携帯を持って病棟に走って行ったら
携帯ではなく、クーラーのリモコンでした。
どうもゲネプロ2期生の小徳です!
2018年は小徳の人生が大きく変わった1年だったと言っても過言ではない素敵な年でした!!
一番の出来事はなんといっても、、
結婚したことです!!
ババーン!!
人生は結婚しなかったらあっと言う間だけど、結婚するとしたら長すぎると思ってました。
持ち前の末っ子パワーと極端な自己中な考え方で24歳まで自分のためだけに生きていましたが
24歳で医者になって初めて、人のために生きることがこんなに楽しくて、幸せなことと知りました。
正確には、人のために体が動いた時に心が軽くなった感じに気づいていたけど、それを無視していました。
小徳はどちらかと言うとゲスなので、友達がフラれたら爆笑しながら酒を飲み、友達に彼女ができたら中指を立てながら唾を吐くような人種でした。
でも、何を血迷ったか電車で妊婦さんに席を譲ったり、迷子の子供の手を握ってお母さんを探してあげたりした時に、心がジワーッと暖かく、軽くなる感覚がありました。
一度、真っ黒になった心は白くしようとしても、せいぜい灰色にしかならないからと諦め、とことん真っ黒にしてしまおうと、周りの人を巻き込み、行き先が崖の暴走機関車に乗っているような感覚でした。
『あー、このままじゃろくな人間にならないなあ。』と危機感は感じていたものの底辺の暮らしは誰からも期待されることなくある意味気が楽でした。
そんな時に、鹿児島市医師会病院が僕を拾ってくれて、そこで自分の夢を思い出して、自分と正反対な、真っすぐで力強い、今の奥さんに出会いました。
小徳は社会人として生きるのにはネジが10本くらい抜けてるけど、奥さんが小徳にないネジ全部持ってて、このポンコツはなんとか社会で生きてるんだと思います。
医師としても、人間としても、まだまだまだな小徳ですが、今年もどうぞよろしくお願いします。
孫が7人、ひ孫が15人
僕の手はあったかい。でも、手汗をかくから、昔から手を繋いだり、握手をするのが苦手だった。
この前、入院患者さんのカルテを眺めていたら、患者さんと看護師さんの会話に『孫が8人、ひ孫が13人いるんだよ』と患者さんが話していた。
その時、急に一人の患者さんを思い出した。
研修医1年目の時に初めて、僕が看取ったおばあちゃんだ。
手が冷たくて、僕が手を握って『今日も手が冷たいですね』と言うと『先生の手はあったかい。この手を握ると元気が出る。』といつも両手で僕の手を握ってくれた。
『私はね、孫が7人、ひ孫が15人いるんだよ』と嬉しそうに、毎日同じ話をしてくれた。
一人暮らしだったから、リハビリを頑張っていた。それでも、繰り返す肺炎で、耐性菌(抗菌薬が効かない菌)が出てきてしまった。そして、強い抗菌薬に体がどんどん耐えられなくなっていった。
どんどん元気が無くなって、ご飯も食べなくなって。僕のことがわかるときと、わからないときが出てきた。
医者1年目の僕は、指導医の先生がどんな治療をしているのか、なんでご飯を食べないのか、どうして元気がないのか、理解できなかった。
どんどん認知が進んだおばあちゃんは、オムツいじりをするようになって、爪の間にはいつもウンチがついていた。
ベットに横たわって、ブツブツといつも何かを呟いていた。それでも、僕が手を握ると『あれ、先生。』と目を覚ますことがあった。そして、いつもの『私はね、孫が7人、ひ孫が15人いるんだよ』と話し始めてくれた。
入院してから3ヶ月で、元気にリハビリしていたおばあちゃんが亡くなった。
僕はその科のローテーションは終わっていたけど、指導医の先生が呼んでくださり、初めての看取りをさせていただいた。
瞳孔の対光反射がないこと、心臓の音、呼吸の音がしないことを確認して、『◯時◯分、確認しました。』
(お辞儀をする)
、、、(あれ。次になんて言えばいいのか、わからない。)
隣に泣いている家族がいるのに、なんて声をかければ良いのかわからない。僕は泣いている家族と、いまさっき亡くなったおばあちゃんを前にして、立ちつくしてしまった。
そしたら、一緒に入ってくれていた師長が代わりに声かけをしてくれて、僕は、バツが悪そうに、部屋を出た。
大好きな患者さんの最後に、なんの声かけもできなかったことが、恥ずかしく、悔しくて、悲しかった。
上五島病院に来て、この半年で沢山の患者さんをお見送りさせていただいた。時には、心臓が止まったまま救急車で運ばれて来られた、初めてお会いする患者さんのお看取りをしなくてはいけない時もある。
研修医のあの時より、亡くなった患者さんへの最後の言葉を、家族へのケアの気持ちを、うまく伝えれているだろうか。
それでも、人の死や、病気に慣れてしまうことも恐ろしく感じていて、ふとした時に、自分が悪い意味で『医療者』になってしまいそうな時があり、初心に還る意味を込めてこの記事を書きました。
『認知症で人生終わりになんて僕がさせない』
『ケアニン』が上五島の迎賓館でも放送されます!!いえーい!!
小徳は勉強会で行けませんが、、是非みなさんみてください!!